
世の中にはいろんな職業があって、魅力的な人たちで溢れている。
ビルビルメンバー(フォトグラファー大辻隆広、スタイリスト伊藤信子)が気になる人に会いにいき、仕事にまつわるあれこれを質問。
次世代へとつなぐインタビュー企画のスタート。

today’s guest
建築士 architect | 小野寺匠吾 Shogo Onodera
1984年東京都生まれ。法政大学工学部卒業後、実務を経てパリに移住。帰国後、妹島和世氏と西沢立衛氏率いるSANAAで国内外のプロジェクトに参加し、2018年独立。代表作に、大阪・関西万博にて河森正治がプロデュースしたシグネチャーパビリオン「いのちめぐる冒険」や表参道ヒルズ・福岡ワンピルの「PATOU」など。また、2025年4月、東京都目黒区の東横線学芸大学駅から徒歩5分の場所に「OSO Research Space」を開設し、建築やアートの展示、食のポップアップ、ワークショップなどをキュレーション・開催する。
― 建築士という仕事に興味をもったきっかけはなんですか?
小学校低学年のときに両親とモデルルームを見に行ったことがあって、母に建築士っていう職業があるんだよ、すごく格好いい職業なのよと教えてくれたんです。そこから小学校の文集で将来の夢に“ホワイトハウスを建て替える”って書くほど意識するほどに。
中学生になって改めて夢について考えて、やっぱり建築士になりたいと思い、それから行きたい高校・大学を見つけたという感じです。あとは家族の影響も大きかったのかも。父はインダストリアルデザイナー、母はファッションデザイナー(いまは2人とも万華鏡作家)、姉はグラフィックデザイナーなんです。
― すごーい! クリエイティブ一家なんですね!
建築士という職業に関しては無知だったものの、建築に関係するクリエイティブな情報を多感な時期に家族から得ていたように思います。思い出すのは、就職活動する時期、まわりはスーツを着てハウスメーカーなど会社見学に行っていたけれど、僕はそれをする気になれなかったんです。そんななか母から安藤忠雄の本を渡され、この本を読みなさい、なにかを感じとりなさい、と。本来であればきちんと就職活動しなさいと言う立場なのかもしれない親からまったくかけ離れたこの本を見せられ、感じなさいと言われた。焦っていたのに拍子抜けでしたね(笑)。
― ちなみにほかに夢中になっていたことは?
サッカーです。小学校の頃、現・東京ヴェルディのユースチームに入っていて、サッカー漬けの日々でした。まわりにはゲームに夢中になる男子も多かったけど、どうしてゲームがおもしろいのか共感できず、ぼくは外でずっと遊んでいたい人間でしたね。それと絵を描くことも好きでした。好きな教科も体育と図工。
― こどもが大好き、体育と図工(笑)。建築士って理系ですよね、勉強で苦労しましたか?
しました、しました。どちらかといえば文系だったので。論文を書くことが好きで、高校時代、1年に1回ある論文テストは毎年トップになるくらい。宮沢賢治の本について書くとなったとき、書いていく途中でどんどんのめり込み、疑問・矛盾に怒りがこみあげ、それを追求していき、最終的に個性溢れる論文ができあがるんです。先生からはすさまじい文章を書くやつだと言われていたくらい(笑)。だから、理系の勉強では苦労しました。ただ、多くの人と関わり、ものごとをまとめる仕事でもある建築士に近づくため、高校で入部したアメフト部のキャプテンを3年生のときにつとめました。今だから言えることは、得意・不得意はあるにせよ、実際に仕事でロジカルになっていくと理系の頭になってくるということ。人間やればできるんだな、と思います。
― 小野寺さんは建築士になるまで苦労したこととか、苦い経験はありました?
しっかりあります。大学卒業後、建築といえばフランスだ、20代は日本に帰るものかと、ワーホリでフランスへ行きました。でも当時、リーマンショックの打撃をうけ、現地人のリストラも多かったんです。結果、30社以上、受けたけど全滅。なんとか照明デザインの仕事をしている日本人のもとでお手伝いができるようになったけれど、金銭面なども考えると厳しくて。これでは1年で帰ってしまうことになると焦り、現地の大学院を受験したけれどここでもリーマンショックの影響で受験する人が増え倍率が高く落ちてしまい、残りの数万円でスイスとドイツを旅して泣く泣く日本に帰国しました。財布に残っていたのはたったの100円。この1年は苦労と失敗という泥臭い人生を送りましたね。
― そうだったんですね、なんかストレートにいい建築事務所に入ったのかと思っていました(笑)。でもなんか大きな失敗や挫折を経験するとそれにしがみつけますよね。
はい、この経験はあとにも先にも自分にとって大きな出来事でしたね。じつは知人からニューヨークの仕事を紹介してもらえる機会があったり、方位学をみてもらったときに“パリは失敗する、ニューヨークに行けば成功する”とまで言われたりしたんですが、パリは芸術の街、行くなら絶対パリって思っていたし、なぜかそれを言われてムカッときた反動もあったから。
― 反骨精神(笑)。それもある種、性格ですよね。人によってはそう言われたらニューヨークに行くだろうし。でも、小野寺さんは行かないという選択をした、そりゃあ宮沢賢治についての論文も怒りの論文になりますよ(笑)。
でも、ラッキーなことに帰国後はフランスに1年住んでいてフランス語、英語ができるということで、SANAAという設計事務所に採用してもらえ、ちょうどコンペに通ったパリの老舗百貨店<ラ・サマリテーヌ>の新築・改修プロジェクトに関わることができました。事務所や仕事に関わる場所にフランス人も多く、たくさんの友だちもできましたし。苦労した結果の先には楽しいものが待っていましたね。ただ、いま方位学でアドバイスされたら素直に従いますけどね(笑)。だってものすごい苦労をしたから。
― それからは順調だったわけですね?
もちろん大変なことは多々ありましたけどね。10年くらい事務所にお世話になった後、独立をしてすぐは個人住宅やリノベーションなどの仕事が多かったのですが、紹介が紹介を呼び、パリのブランド<PATOU(パトゥ)>の日本初旗艦店を手がけることになったんです。それも<ラ・サマリテーヌ>に関わった経緯のおかげでクライアントと打ち解けて、アーティスティックディレクターのギョーム・アンリと一緒に作り上げました。
― 建築士の仕事で楽しいと思う瞬間を教えてください。
もちろん“建つ”ところが根底にあるのですが、“クライアントからのオーダーがあって最初の提案でバチッとはまったとき”ですかね。ぼくは後者の比重が高いかもしれません。そして、建築士の仕事は想像の世界では終わらない、頭のなかにあるものを実際に建てる、実現するところが楽しいです。
― 逆に、難しいと思うことは?
デザインするときに手がかりを探すのですが“建つ場所のコンディションにどう反応して対応するか”ということです。地震対策、法律、クライアントの要望、コスト、人間関係といったものをどう解釈してどう解くかに悩まされる場合があります。それは多くの人数が関われば関わるほど。
― 小野寺さんは自分自身どういう建築士だと思いますか?
どういう…というか人間性を語るとするならばリスク感知能力が著しく低い。よくも悪くも。本当に諦めが悪い。意地でも説得するのがぼくです。そのためなら締め切りを伸ばすタイプかもしれません。延ばせない締め切りももちろんありますが、ある程度融通がきく場合であればそうします。
― ずばり、仕事にむいている人はどんなタイプの人だと?
“怒り”をもっている人…?(笑)モノを作る人って喜怒哀楽、どれかのモチベーションが必要だと思っています。それでいうと僕は怒り。社会的問題におかしくないか?と思ったことに対し、建築士としてどう対応できるかが大切なのかなと。鳥山明はきっと楽、宮崎駿は多分、怒。ミュージシャンは哀を歌にのせていたり。
― いまの若者が将来建築士を目指すならどんなことからはじめるといいですか?
なにをはじめるといいとかではないのですが、思考でいうと、例えば工作の時間の場合。取り組む姿勢として、HOW=考えることが大切だと思います。模型を作るとなったら、ここはどんなところ?暑いか寒いか、川があるとか?とういうコンディションのもと、1日でひとつではなくたくさんのパターンを考えられる人、切り換えられることが建築士に必要だと思います。
― 建築士として今後のビジョンを知りたいです。
ぼくはステレオタイプの建築士ではありません。むしろそれをぶっ壊していきたいと思っています。マスターアーキテクトが君臨する建築の世界ではなく、若手にどんどん仕事をふる流れを望んでいます。<OSO Research Space>を作ろうと思ったのも自分が年老いてまで設計の場に君臨するべきではないと思ったから。体力的に厳しいですからね。キュレーションしたりエキシビジョンをしたりする場所を作れば、企業からのテーマに対し、じゃあ若手はどう?という形で世界中から案を募集できるコンサルもできる。そうすれば社会の仕組みの川上で水をきれいにしていくことになるので、今後はそういう動きをしていきたいですね。
― すごく共感できます。たしかにそういうことを上の人がやっているのは若手にとってすごくありがたい環境ですよね。若いときは自分のこだわりをだしていかないとオファーもこない、同業者に対し羨ましいとか妬みもあった。でもいまは自分の同世代がオンタイムで活躍しているのを知ると嬉しくもあり安心する。仕事をしなくては生活できないけれど、次の世代の道しるべとして何ができるかを考えるようになった。どれを選ぶかはその人自身だけど、今と昔ではおかれている環境も違うから、そういう生き方もあるんだよということを見せることができたらいいなと思っています。
そうですよね。磯崎新さんという建築士がいたんです。その方はくまもとアートポリスという街づくりを行政と一緒に取り組み、優れた建物が生まれました。ぼくもそういう動きが大事だと思い、大阪・関西万博の仕事もそうですが、今後も色々な仕事をしていかなきゃいけない。そうすれば実績も生きると思うんです。この業界でいうと40歳はまだまだ若手ゾーンですから(笑)。
― 忙しい日々をおくっているかと思いますが、オフの日はなにをしていますか?
最近は仕事の時間、スタッフとの時間、家族の時間、自分の時間などなど、たくさんあって何かを融合させないと時間が足りないくらいで。体を動かすことが好きなので休日には子供は自転車に乗って、僕は公園を走るということをしたり、思いっきり鬼ごっこしたりして、子供と遊びながら自分も体を動かすということをしています。うちの子供は机に向かって集中するタイプではないのですが、通っている体操教室での姿を見ると楽しそうに集中しているんですよ。
― 大人になっても外遊びが好きなんですね(笑)。ちなみに生まれ変わったら、建築士も含めて何になりたいですか?
建築士の仕事は自分の考えたことを建てるまでにかなりの時間を要します。その点でいうと俳優とか歌手に憧れますね。自分の一時的な感情で表現できる、声や表情で勝負をしている姿にいつも感動します。
― 最後に、子供のころの自分にひと言お願いします。
大変だぜ…。っていうのは冗談ですが、やり続けるといいことあるよ!ですかね。